宇田川 彩 (UDAGAWA, Aya)

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博士課程

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 研究課題

アーカイブすること・食べること--アルゼンチンの「世俗的」ユダヤ人が生きる自己と探求

 研究関心領域

理論・学史 テクスト・リテラシー 宗教・儀礼 芸術・芸能 人口・移住・移民 食文化

 対象地域

アルゼンチン イスラエル

研究内容

2011年2月より2013年2月までの通算24か月、ブエノスアイレス大学哲学文学学科の客員研究員として資料調査及び聴き取り調査を行った。 

19世紀末以来のヨーロッパ系移民を中心とした移民国家の首都としてコスモポリタンな性格を育んできたブエノスアイレスは、ラテンアメリカ随一のユダヤ人人口を擁する。社会への適応を果たし比較的中流階層以上の多い中、多くの犠牲者を出した1994年のユダヤ団体の爆破事件以降、セキュリティ強化の必要からユダヤ系学校やシナゴーグ(ユダヤ教会堂)等に防護壁が設けられ、以後のユダヤ人コミュニティにおける政治的なパラダイムを変える契機となった。このような象徴的な出来事の前後の変化にも注意を払いながら、「ユダヤ人であること」の意味の通時的変化を明らかにするべく、様々な単位の時間軸を取り扱った。なお、本調査が対象としているのは、文化的・社会的にいわゆる同化の度合いが高いユダヤ人であり、ユダヤ人口の10%を占めるとされる宗教的に敬虔な正統派については、先行研究に基づいた文献調査を行っている。

ユダヤ学者Moshe Halbertal(2001 People of the Book)は、ユダヤ教の重要な伝統である「テクストの継承」について、聖書(ユダヤ教「モーセ五書」)およびタルムード(聖書の解釈書)の聖典化が、時代に即した絶えざる解釈につねに開かれていることを指摘している。「書物の民」としての共同体は、(西欧世界の)ユダヤ史の決定的な転換点である同化・解放を経て解体されたが、つねに刷新される儀礼や、テクストの解釈の伝統は現代的な形をとって残っている。東欧のユダヤ人コミュニティにおいて、学習する(イディッシュ語でlernen)ことはすなわち祈ることと同義であった。ユダヤ教の安息日礼拝の中心は、シナゴーグ内の聖櫃に納められたトーラーの巻物を取り出し朗誦することにあり、シムハット・トーラー(トーラーの歓喜)という祭日には巻物を担いで踊る。このように、テクストとの身体的に密接な関わりを現地調査で目の当たりにしたことは、本研究の原点として刻み込まれている。主要な問いとして、以下の二点を挙げる。

Ⅰ.個人・集団のアイデンティティが形成される際にテクストが果たす役割

Ⅱ. ユダヤ教における儀礼の「新しさ」とは何か 

Ⅰ.テクストと個人・集団アイデンティティ

テーマⅰ 読むことを通じて形成される自己 

トーラー(モーセ五書)クラスにおける調査についての分析:本調査の目的は、ブエノスアイレスの高級住宅街に位置するシナゴーグで行われるトーラーのクラスにおいて、生活スタイルは他のアルゼンチン人と変わらない(同化した)ユダヤ人にとって、トーラーを学習することの意味を分析することである。ユダヤ教戒律に即した生活スタイルを守ることが正統派ユダヤ人としてのアイデンティティであるのに対し、保守派のユダヤ教は、近代的な生活スタイルとユダヤ教の教えを共存させるための解釈が不可欠であるいう立場をとる。1960年代にアメリカ合衆国から保守派ユダヤ教がもたらされたことは、アルゼンチンのユダヤ教におけるひとつの分水嶺となった。毎週決まった箇所が割り振られ、年間を通じて読み進めていくことでトーラーを通読するシステムの中で、毎年読むテクストは同じでありながらも、異なる解釈が現れていく。それは、あるインフォーマントによれば「繰り返し織っていく」ことであり、彼らにとってテクストに新しい意味を見出しながら個々の人生を重ね合わせて解釈をしていく作業でもある。このような解釈を通して形成されていく自己は、解釈と精神的な探究という個人的な行為に基づいている。生活スタイルをユダヤ教の戒律に則って規範化していく正統派のユダヤ人にとって、テクストへの依拠が同時に自身の規律化でもあるのに対して、彼らにとっての聖書とは自らを読み解く物語であるといえる。

・テーマⅱ 書くことを通じて形成される自己

人類学者がフィールドの対象を描くという一方的な表象関係はすでに見直されているとはいえ、フィールドの人々が書いた文書をどのように人類学的データとして用いるのかという問いは、いまだに確立された手法とはなっていない。特にユダヤ系の出版社から出版されているホロコーストサバイバーの自伝や、東欧や中東からのユダヤ移民の手になる家族史を中心として、これらをオーラル・ヒストリーと関連させて分析する。データとしての自伝・家族史という関心とともに、それらを「書く」というプロセス自体が、文化人類学的なテーマである。書くことはすなわち未来に向けた自己の配慮・統治を行う方法でもあるというミシェル・フーコー(2004『主体の解釈学』)の考察を受け、田辺繁治(2007)が病誌の分析をしている通り、書くことはそれ自体が自己を対象化する癒しの手法でもあることを考察する。

・テーマⅲ テクストを通じて形成される集団のアイデンティティ―テクストを救出する

反ユダヤ主義と書物との関連は、1933年にナチスドイツが行った焚書の後に、同化ユダヤ人であった詩人ハイネが残した言葉「書物を焼くものはやがて人間を焼くだろう」という言葉に象徴的に表現されている。ブエノスアイレスのユダヤ研究機関(IWO:ユダヤ文化研究所)が1994年の爆破テロで被害を受けた際、資料館に保管されていた書物は甚大な被害をこうむった。資料の歴史的価値のみならず、当時若者たちが関わった救出作業は、それ自体が重要な現象とみなされ、これらの活動については、2000年代からドキュメンタリ映画や書籍が製作された。これらの活動にかかわった人々へのインタビューおよび、資料収集を通じ、ユダヤコミュニティにおける書物の伝統を継承させる試みについて分析する。

・テーマⅳ ユダヤ暦と自己アイデンティティ・家族史、テクストとのかかわりを通して

ユダヤ暦(月暦)は基本的にカトリック暦に基づくアルゼンチンの国家祝日とは時期がずれる。普段はシナゴーグにもいかないようなユダヤ人でも祝う過越祭(3-4月:出エジプトを記念とする儀礼)・贖罪日~新年(9月中に当たる10日間)は、仕事/学校を休み、家族が集って伝統的な食事を共にする。そのため、ユダヤ人であることを感じる契機として捉えることができることをすでに指摘した(業績(4)-6, 9)。このように、ハガダー(テクスト)、ユダヤ料理(母、祖母、東欧の祖先までが体感とともに遡られる)、シンボル(奴隷となったユダヤの民のシンボルである苦菜など、六種の食物が皿に盛られる)が、家族史の中で繰り返されていくことの重要性がまず指摘できる。とりわけテクストに着目する場合、

ハガダーは伝統的なテクストに基づいて現代も挿絵や解釈などを加え発行され続けており、家庭によっては好みに基づいて編纂し直す場合もある。家庭での参与観察により、(1)どの団体の発行したものを使用するか /まったく読まないか(食事だけをする)(2)どの部分を読むか、全て読み通すか について分析する。ハガダーには美しい挿絵や装丁の伝統があり、これらの通時的調査を通じた物質研究の側面も含まれている。

Ⅱ. ユダヤ教における儀礼の「新しさ」とは何か? 

ラビ(ユダヤ教指導者)が率いる小規模宗教グループでの調査では、ラビBによるユダヤ教儀礼の新たな解釈とメンバーの実践について、参与観察とインタビューを行った。本グループの主な活動は、隔週金曜の安息日の礼拝、隔週木曜のカバラ(ユダヤ神秘主義)のクラス、年に3-4回アルゼンチン内陸コルドバで行われるリトリート(精神修養合宿)である。約30~40人ほどのメンバーの内、ユダヤ系の出自を持つ人は約半数にとどまり、エスニシティや出自にメンバーシップを限らない点、また、各メンバーが、すでに複数の宗教団体や実践に参加してつねに自己探究を続けており、2009年頃から活動を開始した当グループと出会いをこの探究のプロセスに位置づけている点に特徴がある。

テーマⅰ 儀礼での典礼書やテクストの用い方に焦点を当てた分析

精神修養合宿にて、マフゾルと呼ばれる典礼書(新年と贖罪日に用いられる)を水中に投げ捨てる「供え物」と呼ばれる儀礼が行われた。ユダヤ教における伝統的な書物の扱い方(たとえば古くなって使用に耐えない典礼書や聖書はゲニザーと呼ばれる倉に納められる)から見れば、冒涜的とも捉えられうるこの行為は、「古く重たくなったテクスト」を捨てて各人が「歩いていく」ためのプロセスであると説明された。この出来事を、直後に行われたシャブオットという儀礼(モーセがシナイ山で十戒を受け取ったことを記念するユダヤ暦の祭)と対照させることで分析を行った。後者の儀礼においては、テクストを受け取るという行為が、個々人の自由な解釈の上で再び受け入れるという儀礼として初めて正当化されているのである。 

テーマⅱ アルゼンチンのスピリチュアリティとの関連

本グループを、主にアルゼンチンの宗教社会学を中心とした文献調査に基づき、あらためてブエノスアイレスのスピリチュアリティをめぐる状況に位置づけたのが、論文”Spiritual walker without belonging: Through Fieldwork on a Jewish Group in Buenos Aires, Argentina.”(2014年3月提出、現在査読中)である。アルゼンチンでは歴史的にローマカトリックが文化的ヘゲモニーを握ってきたとされる。一方、20世紀後半の軍事政権期を経て1983年に民政移管が達せられて以降、それまでのナショナル・アイデンティティに対する見方が変化し、多様性や多文化主義に焦点があてられるようになる。そこで初めて可視的に表面化した「セクト」や新宗教に対しては、モラル危機といった批判的な反応が生じた。その後、2000年代初頭の経済危機を経て2000年代には「宗教」よりもドグマ的要素や組織的紐帯の薄い「スピリチュアリティ」というカテゴリーによって認識されるようになるとともに、新宗教はそれまでのスティグマ化された存在であることをやめた。エスニシティや帰属にかかわらないユダヤ教グループは、こうした宗教多元的な状況下で精神的な探究を続ける人々の実践の場である。これは2000年代ブエノスアイレスでのスピリチュアリティ興隆の一端に位置づけられることが指摘される。

以上

研究業績

学会・口頭発表        

2009年10月 「わたし/たちがユダヤ人である空間―「帰属」を要求しないアイデンティティの記述に向けて―」日本ユダヤ学会、於・早稲田大学

2010年3月「私/私たちがユダヤ人である空間-ブエノスアイレスのユダヤ人を事例として―」 文化人類学会関東地区懇談会・修士論文発表会、於・東洋大学

2010年7月「家庭という空間-アルゼンチン都市部ユダヤ人をめぐる理論的一考察」 早稲田人類学会、於・早稲田大学

October 2011 “El estudio antropológico cultural de la comunidad judía en Buenos Aires” Universidad de La Plata, Special Class in the Department of History of Asia and Africa , Universidad de La Plata, La Plata 

October 2012 ”La naturaleza en el judaísmo y en la cultura japonesa”、講演:於ユダヤ奉仕協会 (Asociación Filantrópica Israelita), Buenos Aires, Argentina

2012年1月 「宗教職能者としてのラビ」 相模女子大学ゲスト講義

2012年1月 「学習と解釈を通じた自己形成―アルゼンチン・ブエノスアイレスのユダヤ教改宗者を事例として」エスニックマイノリティ研究会、於・早稲田大学

2013年6月  「テクストと啓示のあいだで学ぶ:ブエノスアイレスにおけるユダヤ教テクストの民族誌に向けて」『日本文化人類学学会』、於東京・慶応大学

2013年10月 「めぐる時間と楔打つ時間:アルゼンチン・ブエノスアイレスのユダヤ人とユダヤ暦」 『第9回松下幸之助国際スカラシップフォーラム』、於東京・東京大学

2013年10月  「文化人類学と『民族誌的現在』について: ブエノスアイレスのユダヤ人コミュニティでのフィールドワークを通して」、『人類学遊覧セミナー』、於東京・東京大学

 November 2013 “When a Japanese Anthropologist Breaks her Silence: Silence and Fieldwork in Argentina”, Annual Conference of Anthropology of Japan in Japan, In International Christian University, Tokyo. 

2013年11月 「暦と時間:アルゼンチン・ブエノスアイレスのユダヤコミュニティで考える」 『宗教とツーリズム研究会』、於東京・大正大学

2014年6月 「『閉じたユダヤ人コミュニティ』イメージをめぐって:ユダヤ人地区の変遷と現在」 (パネル「2つのアルゼンチン:移民と国民の相互浸透性」)ラテンアメリカ学会、於大阪、関西外国語大学

2014年6月  「属することのない探究者たち:アルゼンチン・ブエノスアイレスのユダヤグループでの現地調査を通して」、東京都立大学・首都大学東京社会人類学研究会、於東京、首都大学東京

2016年5月「二つのブックフェア・二つのアーカイブ――ブエノスアイレスのユダヤ人コミュニティにおける「文化」と「宗教」」、日本文化人類学学会、日本文化人類学学会研究大会、於南山大学

2016年7月 「ユダヤ教におけるツェダカ(慈善)と連帯について――ブエノスアイレスのフィールドから」FIAL(イベロ・ラテンアメリカフォーラム)、於東京外国語大学

論文                        

2011年3月「『似たもの』としてのブエノスアイレスのユダヤ人―「私」から考えるユダヤ人アイデンティティ―」『ユダヤ・イスラエル研究』第24号

2014年12月「Spiritual Search without Belonging: A Case Study of a Jewish Group in Buenos Aires, Argentina」文化人類学研究 第 15 巻, PP. 79-89

【単著】 2015年 『アルゼンチンのユダヤ人-食から見た暮らしと文化』(ブックレット〈アジアを学ぼう〉別巻)、風響社

書評                        

報告書                     

学位論文                  

2008 「聖者廟という場所―ユダヤ・モロッコ・イスラエル―」 東京大学教養学部 文化人類学専攻 卒業論文

2009年12月「私/私たちがユダヤ人である空間―アルゼンチンのユダヤ人を事例として―」東京大学総合文化研究科提出 修士論文

その他                     

2009年3月 「一高記念賞」、(東京大学教養学部文化人類学専攻提出 卒業論文「聖者廟という<場所>――ユダヤ・モロッコ・イスラエル」)

調査歴

208年8-9月,2010年9月 イスラエル・ハイファおよびエルサレムにて、 ヘブライ語語学研修、アルゼンチンからのイスラエル移民についての調査

2010年2月~3月 アルゼンチン・ブエノスアイレスおよびブラジル・サンパウロにて、ユダヤ系コミュニティに関する予備調査

2011年1月~2013年2月 アルゼンチン・ブエノスアイレスにてユダヤ系コミュニティに関する調査

2014年3~4月 アルゼンチン・ブエノスアイレスにてユダヤ系コミュニティに関する追加調査

教育歴

2008年4月~2010年7月 総合文化研究科 ティーチングアシスタント

2010年4月~2010年7月 教養学部 英語Ⅰティーチングアシスタント

2012年3月~2013年1月 ブエノスアイレス大学語学研究所 (日本語)

2014年5月~6月 昭和薬科大学 非常勤講師(アカデミック・スキルズ)

2015年4月~ 東京海洋大学 (スペイン語初級・中級)

2016年4月~ 横浜市立大学 (スペイン語初級・中級)

経歴

2008.3 東京大学教養学部超域文化学科卒業

2008.4 修士課程進学

2010年4月 博士課程進学

2011年3月~2013年2月 アルゼンチン国立ブエノスアイレス大学 客員研究員

研究助成/その他

・2010年度 松下幸之助記念財団 松下国際スカラシップ

    2011年1月より2年間 アルゼンチン・ブエノスアイレス大学留学助成

・2013年4月~2015年3月 日本学術振興会特別研究員(DC2)

備考

2016年10月現在